第七回 浄土教と鎌倉仏教の思想

第七回 浄土教と鎌倉仏教の思想


目次

7.0 はじめに

「日本の思想」の一連の授業の中で最初の山場を迎える。鎌倉仏教の始祖たちは皆、それぞれに新しい思索を生み出した。鎌倉以前を見ても、鎌倉以降を見ても、そして現代を見てもこの章は外すことのできない重要な位置を占めている。加筆修正を加えながら、できる限り簡潔にわかりやすくまとめていきたい。「比較」という項目を加え、鎌倉仏教の始祖たちを簡単に比較している。

学習の狙い

平安末期から鎌倉時代、時あたかも末法の時代の意識が広まり、僧院すら闘争に関わるその時代のなかで、天台の修行僧たちから、仏法のあるべき姿を思索し、教化に尽くす仏教者たちが排出した。念仏・題目・禅というよけいな飾りを切り捨てた行を主とする仏教の新しい動向と、その背景となる始祖たちの思想を中心に学ぶ。
清水正之 著『日本の思想』(放送大学教育振興会) p.94

内容

平安人の心に徐々に浄土への希求がめばえる。浄土教の浸透とその中から芽生えるあらたな仏教思想の展開の意味を考える。浄土信仰をきっかけに展開した鎌倉仏教の思想を、その祖師たちに焦点をあててみていく。
放送大学ホームページ、シラバスより

キーワード

浄土信仰 念仏 法華信仰 鎌倉仏教


7.1 浄土信仰と法然

7.1.1 『選択本願念仏集』

平安 時代の浄土信仰の盛り上がりは、宗教的には末法の到来、政治的には源平の争乱を背景にしてますます勢いづいた。大乗仏教の僧は、自らも悟りを求めて思索すると同時に衆生を救うという使命も持っている。鎌倉仏教の始祖たちはまさにこうした大乗僧であった。鎌倉仏教という流れはまず浄土思想から始まる。

法然(一一三三〜一二一二年)は九条兼実からの要請を受けて『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を書いたとされる。『選択本願念仏集』ではそれまで日本仏教(そして中国仏教)の持っていた選択と包摂による教相判釈という融通性を棄て、旧仏教を端的に切り捨てるという明快なものであった。これはほかの鎌倉仏教にも共通する姿勢であるが、これは(始祖たちが武士の出身でなくても)当時の世の中が武士の世であったという事情と深く関係しているのではないか。

法然自身は当初あくまで天台の教学の中で念仏を推していたのだが、三論宗などの奈良仏教までに影響を及ぼしていくなかで、兼学ではなく念仏オンリーを行とする専修念仏(せんじゅねんぶつ)あり方が明確になってくる。

『選択本願念仏集』ではその冒頭で「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」という一句で始まる。末法の世では浄土信仰によってしか悟りに入れないとし、聖道門ではなく阿弥陀信仰のみを選び、称名念仏に専念する専修念仏に取り組むよう書いた。

7.1.2 称名念仏という行

法然は中国の道綽禅師の『安楽集』から、いっさい衆生は仏性を持っているのにどうして未だに迷いから抜け出られないのかを考え、五濁悪世(ごじょくあくせ)の世の中では聖道門(≒旧仏教)では悟る事はできない時代になっているとし、大乗と小乗の区別から始まり、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗などの諸宗派、中国の達磨宗(禅)を振り返りながら批判し、道綽禅師の浄土宗こそが聖道門と浄土門のすべてを包摂する完全な教えであるとした。

現代では「念仏」と言った場合、それは仏の名(特に阿弥陀仏の名前)を唱えることだと多くの人が理解するかもしれない。しかし、この時代より前は仏やその世界を心に思い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)が主流であった(平等院や中尊寺などが浄土の世界を再現する建物である理由はここにある)。しかし、源信や法然のころから大衆にも実践できる称名念仏(しょうみょうねんぶつ)が広がりだした。建築物や仏具がなくても実践できるというのは大衆にとっては非常に受け入れやすいものだったに違いない。

仏教の仏にはそれぞれ願があるが、その中で阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに立てた四十八願を重く見て、特に第十八願に依拠する。

十八願の原文

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺

訓読

たとい我、仏を得たらむに、十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して、我が国に生ぜむと欲して、ないし十念せむに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ。

意味

たとえ私が仏になることができたとき、生を受けたすべての人が、良心から信じ喜び私の国に生まれたいとのぞんで、ないしは十編でも念仏したのに、もし浄土に生まれる事がないのなら、私は正覚を得ることがありませんよう。


7.2 絶対他力の信仰ー親鸞ー

親鸞は九歳で比叡山に入り、二十年の修行の末、山を下りて法然の門に入る。度重なる念仏批判を受けた末に後鳥羽上皇の決定的怒りを買い、法然は土佐へ、弟子二人は死罪に、そして親鸞は越後へ流された。親鸞はこのあたりの時期に公式に妻帯しているとされる。勅許後も越後にとどまり、茨城へ移った後、京都へ帰る。有名な歎異抄(作者は弟子の唯円とされる)は近年まで秘本とされていた。親鸞の主著には『教行信証』がある。

7.2.1 悪人正機説

歎異抄の第三章ではあの有名な悪人正機説がある。

「善人なほもちて往生をとぐ、いはんや悪人においてをや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と、仰せ候ひき

ここで言う善人や悪人というのは法律や道徳という意味での善悪ではない。自助努力にて往生を遂げようという自力性を誇りうる存在を善人と言っている。

また、第八章では、念仏は行でもなく善でもないと書かれている(非業非善)。念仏さえも、阿弥陀仏のなすわざであるという考え方である。

本願ぼこり

執筆中

親鸞:唯円よ、私の言うことを信じるか?
唯円:もちろんです。
親鸞:もう一度聞くが、私の言うことには背かないということだね?
唯円:当然です。
親鸞:では千人ほど人を殺してきなさい。そうすればおまえは必ず浄土へ往生できる。
唯円:お言葉ですが、私には千人どころかたった一人も殺せそうにありません。
親鸞:だから念を押して聞いたのだ。これでよく分かっただろう。なんでも自分の思い通りにできるなら、千人殺せと言われて千人殺せるはずだ。しかし殺すべき「宿業」がないのなら、たった一人だって殺せない。自分は善人だから殺せないのではないぞ。それに、殺したいなんて微塵も思っていない人が百人千人と殺してしまうことだってあるのだから。

竪、横、出、超

親鸞は仏教の全体をまず竪(しゅ)と横(おう)に分けた。竪とは順序立てて修行し、垂直的に上昇して悟りを開くという意味で、旧仏教の聖道門にあたる。弘法大師空海の著作『十住心論』にも修行によって心を垂直的に高めて悟りに向かう方法が示されている。これに対して横(おう)とは順序通りではなくその段階を飛ばすという意味であり、これが浄土門にあたる。この二種類の方向性それぞれに出(しゅつ)と超(ちょう)という二種類の方法があるとした。出とは迷いや苦悩から抜け出して徐々に悟りに向かうもので、超は迷った状態のまま一気に悟りに達しようというもの。

 


(迷いを脱して悟 る)

(迷ったまま悟る)

(自力聖道門)
竪出 (しゅしゅつ)
長い修行を続けて迷いから脱し、悟りを得ようとする。それまでの仏教。『十住心論』。
竪超 (しゅちょう)
厳しい修行をして一気に悟ろうとする。即身成仏など。

(他力浄土門
横出(おうしゅつ)
難行ではなく念仏で一気に浄土へ往生し、悟りを得ようとする。 自力によって他力にすがろうとする。
十九願、二十願
横超(おうちょう)
念仏で浄土へ往生するが、 自力ではなく他力で往生する。
十八願

「竪」という字が理屈や順序というニュアンスがありきちんと難行をすることを意味するのに対し、「横」という字は横領、横着、横柄、横暴など、よい意味では使われず、順番・理屈・道理などを守らないというニュアンスがある。「出」とは迷いを脱して悟ることで、 第四回の『十住心論』の表 で見たような垂直的上昇を経て悟りに到達する様を言う。「超」とは迷いを脱したあとに悟るのではなく、迷っ た状態のまま一気に悟るという意味である。自力聖道門の「超」としては即身成仏が例として挙げられる。

 


7.3 道元ー修証一等ー

道元(一二〇〇〜一二五三年)は貴族の子として生まれ比叡山で修行する。鎌倉仏教の開祖たちの中では飛び抜けてエリートの出自である。ほかの開祖たちと同様に天台で出家し、「衆生が本来的に仏性を持っているならなぜ修行が必要なのか」ということに悩んだ。彼は比叡山を下りて臨済宗の開祖である栄西に学んだ後、宋にわたって曹洞禅を学ぶ。仏僧の中には、現実を仮のものとして排するという考え方もあるが、道元は現実を肯定した。しかしそれは、 現実を固定的な世界としてとらえる事ではなかった 。以下は『正法眼蔵』からの一節。

おほよそ山水をみること種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞(ようらく、インドの首飾り)とみるものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず、われらがなにとみるかたちをかれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる、水を妙華とみるあり。しかあれども華を水ともちいるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、濃血とみる、龍魚は宮殿とみる、楼台とみる。あるひは七宝摩尼珠とみる、あるひは樹林牆壁とみる、あるひは清浄解 脱の法性とみる、あるひは真実人体とみる、あるひは身相心性とみる、人間これを水とみる、殺活の因縁なり。すでに隨類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし

つまり、見るもののスタンスや捉え方、境遇により世界を意味として切り取る際の基準が異なるということである。人間が水と見るものを魚は住居とみるかもしれない。現実肯定とも言えるが、固定的な世界の見方ではない。道元の言葉では「殺活の因縁」ということになるが、人間が世界を認識する方法を鋭く説明している。

道元は悟りを得た後も永遠に修行をする事、臨済宗で行われている公案を行わずにただひたすらに座禅をする只管打坐(しかんたざ)を説いた。鎌倉時代の宗祖としては道元の曹洞禅は自力を主張するものであった。

不立文字(ふりゅうもんじ)

禅の教義で、言葉に表さない教えを言う。文字に書き起こされた教えではなく、師匠から弟子へ体験を伝え、弟子はそれを体験的に得るものこそ真髄であるとする考え方がある。もう一度、『正法眼蔵』の「現成公案」から有名な一節を引いてみる。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり。

冒頭に逆説的な句がある。「自己をならふ」ことがなぜ「自己を忘るる」ことになるのか。それは、座禅という"考えない"状態に入ることで、自己が崩壊するためである(『とんぼの本やさしい「禅」入門』)。日常の生活では自分がいて他者がいて、その上でいろいろな関係が発生 しているように感じる。しかし、仏教の唯識説に立てば、すべては関係性によって起こっているので実体というものはない、ということになる。その空の世界、縁起の世界を恣意的に切り分けて分別しているものこそ言語である。つまり言語で思考することをやめて体験できる世界とは、言語的な現象界の外側ないし限りなく端のところで感じられるものではないだろうか。さきほどの山水と瓔珞のたとえ同様に、道元は言語的な世界とまっすぐに向き合った人で、言語が自己であること、言語が世界を意味として区切っていること、そして言語の外にある非言語的な世界を感じていたのではないかと私は思う。

前後裁断せり

最後にもう一つ、『正法眼蔵』の「現成公案」から道元の時間や存在に対する思索が窺える一節を紹介したい。

薪は灰となる。さらに返りて薪となるべきにあらず。しかあるを、灰は後(のち)、薪は先と見取(けんしゅ)すべからず。知るべし、薪は薪の法位に住(じゅう)して、先あり、後あり、前後ありといへども、前後際断せり。

薪が燃えた後は確かに灰になる。しかし、薪はその瞬間に薪という状態であり完結している。灰はその状態で完結している。この後には「たとえば、冬と春の如し。冬の春となると思わず、春の夏となると言わぬなり。」のように季節の移ろいにもたとえている。過去は脳の中の記憶でしかなく、未来は思考の生み出した予測でしかない、あるのは「即今」つまりこの一瞬である。

仏教の時間論として「刹那生滅(せつなしょうめつ)」というものがある。これは、指をパチンと鳴らしたその一瞬に六五回の刹那があり(七五回という説も)、すべてのものはこの一刹那ごとに生死を繰り返している、というものである。宮沢賢治の『春と修羅』の序には次のようにある。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

7.4 日連ー法華経の行者ー

7.4.1 『法華経』と題目

日本の仏教は一部の宗派を除いて幾度となく分離分派を繰り返してきた。その中でも現代の新興宗教には日蓮宗または日蓮の教えをそのルーツとするものが非常に多い。その背景には日蓮(一二二二〜一二八二年)の人となりが関係しているように思われる。

日蓮は今で言う千葉県の漁師の家に生まれ、清澄寺(きよすみでら、せいちょうじ)で出家し、鎌倉で浄土教を学ぶ。後に比叡山で学び三十二歳で清澄寺に戻って日蓮を名乗る。日蓮の教義には 末法の世となり天変地異が続いていた当時の時代背景が強く関係している。日蓮は『立正安国論』で、天変地異は仏が日本を見放したからであり、念仏をやめて法華経に帰依しなければでは外国からの侵略はさけられなくなってしまうと主張し、鎌倉幕府の北条時宗にこのように意見をするが危険視されて伊豆に流されてしまう。

こうした主張は、正法である法華経を立てなければ天変地異や他国の侵略を受けてしまうと仏教経典に書かれている事に由来する。正法を説くものは迫害されるという"預言"も日蓮の伊豆配流で、外国の侵略という"預言"も蒙古の襲来によりますます現実味を帯びてくる。

明治のキリスト者である内村鑑三は『代表的日本人』という著書の中で日蓮をあげている。日蓮の独走により仏教が日本の宗教となった、闘争性を差し引いても理想的な宗教指導者であると評している。一身に帰依する姿勢や迫害という事実はどこかキリストにも重なるものがあるのかもしれない。

一念三千

執筆中

久遠実成

執筆中


7.5 比較

鎌倉仏教の開祖たち五人を比較してみた。

  法然 親鸞 道元 日蓮
生誕 1133年 1173年
法然から40年後
1200年
法然から67年後
親鸞から27年後
1222年
法然から89年後
親鸞から49年後
道元から22年後
出自 岡山県の久米郡で貴族の子として誕生。幼い頃に夜討ちによって父を失うが、父からは敵討ちをしないよう遺言される。 京都の日野で貴族の長男として誕生したとされる。ただし記録が少ないために定かではない。 京都の久我家に産まれる。父は内大臣・源通親(または大納言・堀川通具との説も)、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘で藤原伊子。 千葉県の鴨川市で漁師の子として産まれる(有力漁民、または武士であったという説も)。
修行
開始
13歳
1145年
比叡山
9歳
1181年
比叡山
13歳
1212年
比叡山
12歳
1233年
清澄寺
主な
教え
専修念仏
他力本願
専修念仏
絶対他力
悪人正機
只管打坐
不立文字
法華経
一念三千
久遠実成
主な
著書
選択本願念仏集 教行信証 正法眼蔵 立正安国論
入滅 78歳
1212年
89歳
1263年
53歳
1253年
60歳
1282年

7.6 まとめと感想

法然と親鸞

源信・法然・親鸞が打ち立てた浄土宗・念仏という行は、真の意味での大衆的な仏教の誕生となった。「信心」をなによりも大切にし、衆生救済に力を入れたその姿は、まさに大乗の僧にふさわしいといえる。しかしその大衆性とは対照的に、親鸞の「悪人正機」や「本願ぼこり」の問題は非常に哲学的に深い洞察を与えてくれる。親鸞や歎異抄を単なる道徳的な物差しで見てしまうと、とたんにパラドックスにはまって抜け出られなくなってしまう。粘り強く向き合わなければいけない。

凡夫であることを自覚し心身ともに弥陀にゆだねるのは、人間個人と超越的存在との間にある「信仰」を見つめ、突き詰めていった結果なのではないだろうか。現代にあってもこの画期的な発想には驚かされる。

道元

道元の禅にはとりわけ真言宗や天台宗の一部に見られる「密教的な神秘性」や「来世観」が薄い。超越存在に対する個人の信心を見つめた浄土宗・浄土真宗とは対照的に、道元は個人の内面にある自己と自己ではない部分に目を向けたのではないかと私は思う。近年には親鸞と同様に西洋の哲学者からも注目されたが、それは道元が自我、時間、存在、言語といった哲学課題に伝統的な西洋哲学とは異なる切り口で向き合ったからではないだろうか。道元の『正法眼蔵』では、当時が末法であることを否定していることも付け加えておかねばらなない。

日蓮

日蓮が一心に帰依した法華経は、古くから尊ばれ、各宗派でも重視されてきた。法華経を最高の教典と位置づける天台の流れ汲み、さらに法華経「のみ」を取り上げた日蓮は「鎮護国家」の雰囲気を十分に引き継いでいたのではないだろうか。後年になってナショナリズムと結びつくのはこういった点かもしれない。

仏教 (図解雑学)

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インド仏教、中国仏教、日本仏教の歴史をたどっていく網羅的な本。前提知識がまったくない場合はこちらから。

『教行信証』を読む――親鸞の世界へ (岩波新書)

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読書中。。。

とんぼの本やさしい「禅」入門

とんぼの本やさしい「禅」入門

やさしい読み物で、禅の体験記や対談、精進料理の紹介などがある。禅の組み方なども写真入りで紹介している。まさに入門書なのだが、対談で禅とは何かという問いに対して「考えるのをやめること」と簡潔に答えていたのを読んで、とたんに道元への興味がかき立てられた。気楽に読める手頃な本。

永平の風―道元の生涯

永平の風―道元の生涯

道元の生涯を綴った小説。演出(脚色)が素直で癖がなく、嫌みのない丁寧な心理描写で話が進んでいくので、抵抗なく読み進められる。前半の 200 ページくらいまでで道元個人の思想的な展開をたどることができる。お勧めしたい。

立正安国論ほか (中公クラシックス)

立正安国論ほか (中公クラシックス)

読書中。。。

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